前回のブログで触れた合理的配慮ですが、行政や事業所、学校など社会全体へ可能な限りの義務が生じました。
保育所で言えば、例えば、車いすを使用する児童のために、本人が望むならば、バリアフリー化や、必要があればトイレにオスメイトを導入する、などの配慮が求められます。
他にも大きな集団や大きな音などが苦手な子どものために一人もしくは数人で過ごせる場所を設ける、言葉による指示が通りにくい子どものために、手順や先の見通しを写真や絵で掲示する、アタッチメントの対象物が必要ならばその所持を認める、空間認知が苦手な子どものために、スペースを広く保つ、所持品を写真つきなどでわかりやすくまとめる、などなど。
これらは、うちの保護者ならば、すでに日々目にされていることですね。
今回施行された法は、合理的配慮が注目されがちですが、実は、施行にあたっては、一番重要な「インクルージブ」の考え方がベースになっています。
これも、うちの保護者ならば、すでに経験済みですね。
HPにも記載のある「インクルージョン保育」です。
これは、障害のあるなしに関わらず、同じ空間、同じ時間、同じ環境で過ごし、個々の発達や特性に応じて本人の意思によって過ごせる環境を整える保育のことです。
これまでは、障害のあるなしで、過ごす部屋や環境を「大人が」主体となって決めてカテゴライズしてきました。これを、子どもを主体として、子どもが自己決定ができる環境をととのえることで、インクルージョン保育が可能になります。
簡潔に言えば、「障害があろうとなかろうと、誰もが過ごせる環境を整えなさいよ」というのがインクルージブな考え方です。
この考え方がベースにあっての法です。ですから、そこには合理的配慮が不可欠になるわけです。
ベースとなる考え方を理解しないまま、合理的配慮だけに注目しようとすれば、おとなはただ混乱するだけです。
実際、今回の法が施行され、混乱しているのは現場のようです。
特に学校現場の混乱が顕著に感じます。
いまさら言っても仕方ないんでしょうが、インクルージブな考え方は、今に始まったことでなく、もう10年も20年も前から言われていることです。
環境を変える機会はたくさんあったはずです。
なのに、なんで動かなかったんでしょう?
どうして取り組もうとしなかったんでしょう?
これは、何も現場の職員だけの責任ではなく、国が子どもにお金をかけてこなかったツケとも言えます。
先進各国と比べ、子どもへかけるお金の極端な低さは、世界的に有名な日本ですから、結果として、次世代を担っていく子どもたちへの教育がおろそかになってしまっているわけですね。
子どもたちへの教育をおろそかにすると、国の存続に影響があることくらい、考えたらわかることなのにね。
そして、世界的にはすでにインクルージブな考え方の一歩先をいっています。
それはコーヒージョンという考え方で、「障害のあるなしに関わらず、いかに人と人とを結びつける環境を整えるか」というものです。
一昔前の言葉でいえば、「どうWIN-WINの関係をつくっていける環境を整えるか」ともいえます。
これは、うちでも大きな課題のひとつです。