「子どもは自ら発達するもの」
これは、現代の子ども学や赤ちゃん学では、当たり前の知識です。
子どもは、発達する際、本来の気質と環境によって左右されます。この時、おとなが主体となった注入で育てようとすると、子どもの発達に「ねじれ」が生じてしまいます。
この「ねじれ」が現代で言うところの「引きこもり」だったり「いじめ」だったり、様々ん精神疾患だったりするわけです。
子どものためを思って、子どもが先々苦労しないようにと、おとなは様々な「知識」を注入しようとします。
これはおとなの「愛情」であることは間違いないのですが、その「愛情」が、おとな主体のものであるために、不幸な結果となるわけです。
ですから、この「愛情」を子ども主体のものにしなければいけないわけですね。
子どもを主体にするということはどういうことかと言うと、これが冒頭の「子どもは自ら発達する」ということを理解するということです。
特に、乳幼児期は、このことを十分に理解して保育しないといけないわけです。
知識の注入が「悪」か、と言われるとそうではなく、ただ、「時期」じゃないだけです。
十分に主体的に自ら発達した後、それから初めて知識の注入を行うのです。
これがいわゆる「学校教育」です。
それでは、乳幼児期に大切なのは何かというと、これがタイトルの「弁別と選好」になります。
様々な物や人、環境を「弁別」し、「選好」し、「選好」したものを十分に感じる・経験する・味わう・深める・・・。
弁別や選好にあたり、基準は個々によってもちろん違います。
ですから、どんな子どもにも対応できる環境設定が必要になります。
子どもが主体的かつ自発的に弁別と選好を繰り返し、発達していくわけです。
わかりやすい例をあげると、例えば子どもが「○○をしたい」と言ったとします。
もちろん、天候やその時の状況で、希望を叶えられないときはあると思います。
ですが、おとなが発想を変えることでその希望を叶えられるとすれば、それは希望通りにするべきです。
なぜなら、そういった子どもの言動は、子どもが自らを発達させようとする行為だからです。
こういったことを頭ごなしに怒ったり静止したりするのは、保育ではありません。
子どもが自ら発達しようとしているのを阻害しているだけですから。
子どもだけに限らず、人間の行動には、そのような行動を取る何らかの理由が必ず存在します。
それらを探り、理解し、今のその子どもの発達がどういう状況なのか、それを見極めていくのが、保育であると思います。