大津市の中学生の自殺に関しての報道が連日流れています。
子どもを持つ親としては、他人事ではありません。
当事者ではないので、真実がどうなのかは、私にはわかりません。
メディアによる報道で、情報を知るしかないのですが、その情報もどこまでが真実なのかは今の時代特にわからないものです。
それらの報道により、亡くなった子どもの同級生による証言が次々に表に出てきていて、学校と教育委員会による責任逃れの隠蔽工作や、凄惨ないじめの内容は明らかになってきていることも多くあります。
すでに起こってしまったことをあれこれ言うのは簡単です。
あのときこうしていれば、という思いは、事件に関係する誰もが思っていることだと思います。
もしかすると、当事者でも、「自分は悪くない」と未だに思っている人もいるかもしれませんが。
それでも、あえて言うなら、まわりの大人たちが、ここまでの隠蔽工作に走らなければ、亡くなった生徒は、亡くならずに済んだのではないでしょうか。
子どもを健全に育成するのが学校や教育委員会の仕事です。
その主体は「子ども」にあるべきで、「子ども」が主体でないことはおかしなことです。
にもかかわらず、この事件の内容はどうでしょうか。
主体が「おとな」なんですよね。
「おとな」の自己保全・責任逃れが主体になっています。
本来、主におくべき「子ども」は2の次・3の次になっています。
おとなのために子どもが犠牲になるのが教育でしょうか?
子どもはおとなのために生きているわけではありません。
「臭い物には蓋をしろ」
この言葉がぴったり当てはまる事件です。
こういう言葉があるということは、隠蔽という行為は日本では昔から当たり前に行われてきたのでしょうね。
おとなは子どもに、「悪いことをしたら誤りなさい」「反省しなさい」「嘘をついてはいけません」「いじめはいけません」等など最もらしいことを言います。
ですが、そのおとなが、言っていることと行動が違えば、子どもは何を信じていいのかわかりません。
「口ではいい事を言って、真逆の行動をしても、バレなければいい」
こういうことを教えている気がしてなりません。