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園長の日記

学ぶということ

2013/11/01

学ぶというと、いわゆる「お勉強」であると考えられるのが一般的です。

確かに、「お勉強」も学ぶことです。しかし、それ以外にも、人としてのあり方や他者との関わり方を自分の中で培っていくことも学ぶとういうことです。

そして、その「学ぶということ」は、子どもにとって「教えてもらわないといけない」と考えられがちです。

しかし、子どもにとって何かを学ぼうとするとき、そこに大人の思いだけでは、学べません。

そこには、子ども自らの意欲や、自ら関わっていく姿勢(自主性)、自らが決定し関わっているという姿勢(主体性)がないと、表面だけの知識としてしか子どもの中に残りません。

特に、意欲いわゆるやる気があるのとないのでは、同じ物事を学ぶにあたって、ずいぶんと差が出ます。

子どもはおとなが注入してあげる生き物ではなく、自らが自発的に発達していく生き物です。

そのあたりを捉え間違うと、子どもが自ら決定したことを「ただのわがまま」だと一蹴してしまうことになります。

子どもが「○○したい」と言ったとき、その理由や意図を汲み取らないといけません。

なぜなら、それはその子が自ら発達しよう、学ぼう、としている姿だからです。

それを頭ごなしに否定してしまうのは、本当に勿体無いことだと思います。

勿体無い上に、ヘタをすれば、子どもの発達を阻害したり、意欲をなくさせたりすることにもつながります。

少し下がって、子どもをよく見てみると、おとなも今まで距離が近すぎて見えなかったことが色々見えてくると思いませんか?

弁別と選好②

2013/09/02

「子どもは自ら発達するもの」

これは、現代の子ども学や赤ちゃん学では、当たり前の知識です。

子どもは、発達する際、本来の気質と環境によって左右されます。この時、おとなが主体となった注入で育てようとすると、子どもの発達に「ねじれ」が生じてしまいます。

この「ねじれ」が現代で言うところの「引きこもり」だったり「いじめ」だったり、様々ん精神疾患だったりするわけです。

子どものためを思って、子どもが先々苦労しないようにと、おとなは様々な「知識」を注入しようとします。

これはおとなの「愛情」であることは間違いないのですが、その「愛情」が、おとな主体のものであるために、不幸な結果となるわけです。

ですから、この「愛情」を子ども主体のものにしなければいけないわけですね。

子どもを主体にするということはどういうことかと言うと、これが冒頭の「子どもは自ら発達する」ということを理解するということです。

特に、乳幼児期は、このことを十分に理解して保育しないといけないわけです。

知識の注入が「悪」か、と言われるとそうではなく、ただ、「時期」じゃないだけです。

十分に主体的に自ら発達した後、それから初めて知識の注入を行うのです。

これがいわゆる「学校教育」です。

それでは、乳幼児期に大切なのは何かというと、これがタイトルの「弁別と選好」になります。

様々な物や人、環境を「弁別」し、「選好」し、「選好」したものを十分に感じる・経験する・味わう・深める・・・。

弁別や選好にあたり、基準は個々によってもちろん違います。

ですから、どんな子どもにも対応できる環境設定が必要になります。

子どもが主体的かつ自発的に弁別と選好を繰り返し、発達していくわけです。

わかりやすい例をあげると、例えば子どもが「○○をしたい」と言ったとします。

もちろん、天候やその時の状況で、希望を叶えられないときはあると思います。

ですが、おとなが発想を変えることでその希望を叶えられるとすれば、それは希望通りにするべきです。

なぜなら、そういった子どもの言動は、子どもが自らを発達させようとする行為だからです。

こういったことを頭ごなしに怒ったり静止したりするのは、保育ではありません。

子どもが自ら発達しようとしているのを阻害しているだけですから。

子どもだけに限らず、人間の行動には、そのような行動を取る何らかの理由が必ず存在します。

それらを探り、理解し、今のその子どもの発達がどういう状況なのか、それを見極めていくのが、保育であると思います。

弁別と選好①

2013/09/01

生まれたての赤ちゃんは、何もわからない・できないと思われることが多くあります。

しかし、最近の赤ちゃん学の進歩によって、様々なことがわかってきています。

その中のひとつに、「弁別」が挙げられます。

弁別とは、簡単に言えば、「区別すること」です。

生まれたての赤ちゃんは、聴覚がないと思われがちですが、実は、胎内にいるときから聴覚は発達しています。ですので、生まれたての赤ちゃんでも、母親と、母親とは違う女性との声の区別をつけることができます。

そして、もちろん、胎内で聞きなれている母親の声を好むわけです。

これがいわゆる「選好」と言われるものです。

このように、生まれたての赤ちゃんでも、弁別と選好の機能が備わっているわけです。

そして、何を好むかは、胎内での環境や、本来その子が持つ気質などにも左右されます。

発達するということが、「不必要な物を削っていく作業」であることは、以前のブログにも記しました。

子どもが生きていく中で、自分にとって必要なものとそうでないものとを区別し、必要ないものは捨てていくのが「発達」です。

そして、「何を残していくか」というのは、本来その子どもが持つ気質と、環境に大きく左右されるわけです。

年々人口が減っていく日本で、子どもたちに何を残していくか、どのようなおとなになってほしいのか。

世界的にも少子高齢化が進む中、人類にとって必要なものは何なのか。

それらのことを踏まえながら、子どもの発達を捉えていかなければいけないのではないかと強く思います。

 

結果

2013/08/01

日本は、世界の中でも、豊かな国であるとされています。

島国ですから、国土面積は大きくないのですが、四季があり、水もきれいで、食べ物も豊富です。

統計上は、多くの食べ物を諸外国からの輸入に頼っていますが、粗食であれば自給自足も可能です。

ですが、それは、「きれいな」水や空気があってのこと。

2011年の東日本大震災の2次的な災害である原子力発電所からの放射能漏れは3年経過してもなお、放射能漏れを食い止めることができていません。

一度、放射能が漏れてしまうと、浄化されるのに100年単位の年数が必要だそうです。

先日、子どものガンがこの数年で急増しているとの報道がありました。

中でも、白血病が多くを占めているそうです。

放射能と白血病の関係性は過去に原爆を経験している日本では、当たり前とも言えることですが、このことをどう捉えるか、それはそれぞれです。

何事も、結果が出てから騒いでも、その時には手遅れであったり、回復までには何十倍もの時間と労力を費やしたりしなければいけませんよね。

そして、結果が出たときに「こんなはずじゃなかった」と口を揃えて言います。

確かに、誰も預言者ではありませんから、未来のことはわかりません。

だからこそ、自分が選択したことに、どんな結果が出たとしても、それを受け入れる覚悟が必要なんだと思います。

そしてこれは、人が生きていく上で、最低限持っておかないといけないことでもあると思います。

三浦春馬事件

2013/06/20

昨晩からの雨と強風で、夜中に停電したのか、プリンターがフリーズしてしまいました。

再起動ですぐに使えるようになったわけですが、再起動と共に、プリンターから吐き出されたのは、最近人気の俳優である三浦春馬さんの画像だったらしく、主任やゆうたろうさんから

「三浦春馬出した?」

と聞かれたわけです。

が、私にはさっぱりな質問なので、聞き返すと、↑の経緯を教えてくれました。

「いやいやいやいや、三浦春馬とか出してないけど!!!」

プリントアウトしたのは私ではないと伝えたわけです。

 

三浦春馬さんは確かにかわいいルックスです。否定しません。

世の若者からオバサマまで、幅広い人気がある俳優さんです。

ですが!!!

あたしゃ、堤真一とかゲーリー・オールドマンが好きなんです!!

いいですか!

演技派の渋いおじさまがいいんです!(もはや何のアピールかわかんない)

 

ちなみに、犯人は百子さんでした♪

七夕まつりにつかうそうです!(笑)

絵本

2013/06/17

絵本と言っても、その種類はとても多く、様々な絵本作家がいます。

私の好きな絵本作家のひとりに、シェル・シルヴァスタインという作家がいます。

代表的な作品に、「おおきな木」や「ぼくを探しに」などがあるんですが、どれをとっても奥が深く、「答え」というものが決まっておらず、「読み手」に委ねられている部分が多くあります。

また、「読み手」の年齢や、その時におかれている状況によっても、感じ方が違ってくる内容です。

このように、本来「絵本」に限らず、「おはなし」というものは、童話や小説、詩なども含めて、どのように感じるかは「読み手」次第であり、そこに明確な「答え」は存在しません。

文章のどの部分、どの言葉に感銘を受けるかはそれぞれですし、どのように感じるかという「答え」はひとつではありません。

小学校以降、「国語」の授業がありますが、その授業中に、よく、「線の引かれているところの主人公の気持ちはどういうものですか」などといった問題が出ます。

そして、それには「答え」が用意されていて、その「答え」から外れると、×になります。

「国語力」はとても大切なのですが、そういう問題を解くことで「国語力」があがるとは、到底思えません。

私が子どもの頃からずっと感じていたことですが、「答え」が決まっていて、その答えを導き出すマニュアルがあって、そのマニュアルを叩き込むことが正しい教育や正しい指導だと思っているおとなが多いことに、未だに違和感を覚えます。

 

気づけば・・・

2013/06/14

もう6月ですね。

そして前回のUPから5ヶ月経過しているというこの現実!(笑)

ある意味おおらか!そしていい加減!

そこが私のいいところでもあり、悪いところでもあります。

このように、人間って誰でもいいところがあり、悪いところがある生き物です。

そして、ナントカと天才は紙一重、と言われるように、同じ特徴が+にもなり-にもなるんです。

これって、「見る側」の意識の問題ですよね。

例えば、園で子どもたちの姿を見たときに、お部屋の中をウロウロしている子がいたとします。

これは学校とかでは、「落ち着きがない!」とか言われたりします。

でも、見方を変えると、「よく気がつく」とか「好奇心旺盛」となります。

実際に、集中してあそび込んでいる子には目に入らない周りの状況を把握していたり、好奇心が発端になり、何かを深めていったり。

要するに「おとな」の「勝手な見方」で、その子どもの評価が分かれちゃうんです。

勝手に評価されて決めつけられちゃう子どもは、たまったもんじゃありませんね。

そもそも評価する側のおとなが、他人を評価できるほど聖人かって言ったら違うんですけどねえ?

青臭さ

2013/01/10

私が保育園に勤め始めた頃の話です。

勤めれば勤めるほどに、日々、保育園という閉ざされた空間や組織、閉塞的な保育界、女子高のような人間関係などなど疑問の連続でした。

その疑問を口に出すと、決まって私が青臭いと言われてきたわけです。

つまり、未熟で、考えが浅はかだといろんなおとなから言われ続けてきたわけなんですね。

まぁ、私は子どもですから、そう言われちゃうのは仕方ないことなんですけど、その頃からずっと今でも言ってることは変わらないわけですね。

それが最近では、私に「青臭い」だのと言うおとながいないわけなんです。

勤続年数がある程度になってきたからなんでしょうかね?

 

そもそも、「子ども」を主体とするのが保育園です。

基本の中の基本を私は言い続けてきただけですが、それが青臭いというなら、私は一生青臭いままでいたいです。

できるかできないか

2013/01/09

生きていると壁にぶつかることがよくあります。

自分の力がどれくらいのものかという現実に打ちのめされそうになることも多くあります。

誰でも、できることとできないことがあって、苦手なことはどんなに努力してもそうそう簡単にできるようにはなりませんし、克服もできません。

そして、その苦手なことを克服させようと、やたらと「努力」だとか「根性」だとかお得意の精神論を振りかざすおとながいます。

まぁだいだいにおいて、そういうことを言う人ほど、本人は「努力しているつもり」だったり、「根性なし」だったりもするのが面白いところですけど(笑

と、サラッと毒を吐いてしまいましたが(笑、私が思うに、

無理強いされたことほど、克服どころか悪化してしまうのが世の中なんですね。

要するに「できるようになる」という結果ばかりを求めちゃって、そこに「主体的」で「能動的」なものは置いてけぼりになりがちというのが、日本の教育の縮図のような気がします。

「できるかできないか」

ではなく、

「やるかやらないか」

の方がよっぽど大事なことだと思うんですけどねえ?

2013/01/08

といえば

やっぱりそのあとに続くのは「爆」ですよね?

え?

ちがう?(笑

 

そうです。

最近、親子でゴールデンボンバーにハマっています。

くだらないことに本気になれるあの姿は、最高の「遊び心」があるからこそだと思うわけです。

ガチャピンとムックのパロディである「ガチュピン」シリーズなんて、もう「アホ」としか言い様がないくらいの遊び心を出しています。

まぁ

世の大人たちはちょっと顔をしかめちゃうかもしれませんけども・・・(笑

そんな彼らですが、実はとても礼儀正しい方々だそうで、ふざけるだけでなく、メリハリあるところも好きなところです。

これからもTPOに合わせて本気でふざけてほしいと思います!

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