ある小学校での授業中での話ですが、社会の授業のときに、先生が都道府県に関しての質問を生徒にしたそうです。
「日本には何県があるでしょう」
という質問に、子ども達はみんな「福岡県!」などと県名を答え、ある子どもが、
「志村けん!」
と張り切って答えたそうです。
本人は、真剣に答えたつもりだったのですが、教室中は笑いに包まれ、ふざけたと思った先生は、その子どもを厳しく叱ったそうです。
「それは違う!関係のない発言をしてはいけません!」
この話を聞いて、何てもったいないことをするのかなぁと思いました。
確かに、志村けんは都道府県名ではありません。
ですが、その子どもはふざけて言ったわけではありません。
頭ごなしに叱られたことで、その子どもは今後、発表することにも気後れするでしょうし、きっと、何がどう違うのかも分からずじまいです。
どうしてその発言のときに、
「確かに“けん”がついているけど、“志村けん”の“けん”は、人の名前だよね。今話しているのは、日本にどういう県があるかってことで、たとえばみんながすんでいる福岡県とかお隣の佐賀県とかを話しているんだよ。それに使われている“県”は、日本を47個の地方に分けた時に使われる“県”なんだよ。でも、同じ“けん”だから、文字数も一緒だし、音の響きも一緒だよね。じゃあ今度、同じ文字数同じ言葉の響きがどんなものがあるか国語の時間にやってみようか」
といったことを先生は言えなかったんでしょうか。
社会の時間は社会だけ学べばいいというものではないと思います。
すべての教科にはつながりがあって、生活にも密接に結びついています。
そのつながりを断ってしまうような授業だと、ただの知識の詰め込みになってしまいます。
学力向上のために、学習要領が改訂され、カリキュラム数が増えたことで、時間内にどれだけ詰め込めれるかが主流になってしまっている気がします。
小学校や中学校の先生達も、目の前のカリキュラムに追われる日々だということは理解できますが、もっと、子どもそれぞれにあった学習の進め方や、教科と教科の連続性などを踏まえた学習を義務教育の間で行って欲しいなと思います。
そのためにも、国がもっときちんと子どものための教育を理解する必要があると思います。
今後、進められる「子ども・子育て新システム」で、少しでも子どもにとって本当に必要な教育を行える国になってほしいものです。