近年、幼保一元化が騒がれています。国としても、近い将来、幼保一元化に向けての動きを始めています。
これはそもそも、同じ「子ども」なのに、保護者の就労の有無で最初の社会生活である場の施設を振り分けられてしまうことや、同じ「子ども」であるのに、就園した先の違いでその管轄が、文部科学省と厚生労働省とに分けられることなどが、果たして子どもにとって本当に必要なことなのかどうか、ということに対して、やはり同じ子どもである以上、保護者の就労等に左右されずに、質の高い保育を受けられる場所を提供する義務が国にあるとの見解から進められているものです。
これまでは、保護者が就労している場合など、家庭で保育できない事由がある場合は、幼稚園でも保育園でも選ぶことが出来ました。しかし、逆の場合は、幼稚園や託児施設しか選ぶことができません。
子どもの社会性の芽生えは、0歳児から始まることを考えれば、0歳児から家庭以外の社会生活の場を持つことが子どもの発達上、必要不可欠になってくるのですが、子どもの発達は2の次で、おとなの都合だけで子どもを振り分けてきたわけです。
子どもの発達を主体に考えた場合、やはり、おとなの都合で管轄をわけるべきではないと思います。これは本当に至ってシンプルな考えなのですが、管轄が違うというだけで、様々な軋轢が生まれています。
要するに、おとな主体の利権問題や、おとなが変わる事へ対しての不安や労力など、おとなの思惑が絡むことで、本来はシンプルな目的だったものが、歪んだ軋轢を生んでいるわけです。
もちろん、管轄が違えば、基本としている法令や様々なシステムも違ってきますし、お互いの歩み寄りがそこかしこで必要になってきます。
そのために、どちらにも有効な法案を練ったり、どちらにも有効なシステムを構築することが必要になってきますので、労力も時間もかかります。
ですが、子どもを主体とした保育を提供するにあたって、労力や時間がかかるのは当然のことです。
至ってシンプルなことなのですが、おとなが絡むと、さも複雑なことのようにおとなが騒ぎ立てます。
おかしな話ですよね。
子どもを主体としないのなら、子どもに関わらなければいいのに、と単純な私は思ってしまいます。
「子どもを主体とする」ことは、国の義務でもありますし、子どもに携わるすべての機関の義務でもあります。
何かに行き詰ったときこそ、原点に戻り、シンプルに考えるということがとても大事なのではないかと思います。
ちなみに、「保育」とは、「養護と教育が一体となったもの」ですので、あえて教育という言葉は使用していません。