日本は民主主義国家です。
民主主義とは、人民(国民)が主権を持ち、人民の意思によって行われる政治のことを表します。
リンカーンの「人民の、人民による、人民のための政治」という有名な言葉がその特色をよく表していますので、引用されることが多いですね。
日本では、各選挙区ごとに選挙があって、地区ごとに代表者を選挙で選出して、その代表者が各地区の代表として国会などに参加して、国民のかじ取りをします。
選挙は、いわゆる多数決で決められるものです。国会においても、法案成立や重要な議事決定などは多数決で決定されます。
制度そのものに対して、どうこういう気はありませんが、どんな状況にあっても単純に多数決でスパっと決めてしまうということに対しては、疑問があります。
十分な意見の吸い上げと十分な話し合いがないことには、ただの数の暴力になりかねないと思います。
特に、何らかの障害を抱えていたり、生活苦の人々など、いわゆる社会的弱者といわれる人々の意見は、大きく取り上げられることは少ないのが現状です。
また、子どもも同様で、大人の所有物とみなされることが多いのが日本社会ですから、子どもの意見表明などはなかなか受け入れてもらえません。
少し雑な例にはなりますが、例えば子どもが雨の中遊びたいと言ったとします。大人は風邪を引くから、と止めます。持病があって雨に濡れたりすることができない子どもは仕方ないとしても、雨の中遊ばせてくれる大人が日本にどれだけいるのだろうと思うと、パーセンテージで言えば一桁でしょうね。
上記の子どもの意見を聞き入れるか否かを多数決で決めると、多くの方が「否」となるでしょうから、多数決の結果、「雨の中子どもを外で遊ばせない」となります。
しかし、数パーセントの大人は、雨の中でしか学べないことがあることに気づいていて、「可」を出しています。どちらが正しい間違っているという話ではなく、数パーセントの「可」を切り捨ててしまうのはどうかと思うわけです。
もちろん、事前に、十分な説明は必要だと思います。「風邪を引くかもしれない」ことや「服や靴がびしょぬれになってしまう」ことなどね。
ここまでで、変だな?って感じた方もいらっしゃるかもしれません。
私自身、書いていて違和感しか覚えません。
何に違和感を感じるかというと、最初の子どもの意見表明から以後、すべて「主体」が大人であることです。
雨の中遊ぶかどうか、その行為を行うのは「子ども」です。ですから、主体は子どもであるべきではないでしょうか。
遊ぶか否か、子どもたちが自分たちで意見を出しあい、話し合うべきことではないでしょうか。
身体が丈夫な子どもは、多少雨に濡れても病気になることはありません。
逆に、体が冷えてしまってすぐに発熱してしまう子どもだっています。
年齢で区分はできませんが、年中や年長児程度の発達を遂げている子どもならば、自分の身体に関しての自分なりの情報も持っています。それを生かして、自己を知り、先を見通して様々なことを決める力もあります。
子どもが主体となれば、自分の体調やがどうなのか、をもとに、話し合って遊ぶか否か、ではなく、遊ぶ子と遊ばない子に分かれるという結果が出てくるのではないかと思います。
子どもたちに選挙権はないかもしれませんが、国民としての最低限の権利は持っています。その権利は、たとえ保護者であっても侵すことができないものです。
意見を出しあって、話し合って、それでも決まらない場合、最終的に皆の同意をもっての多数決であるならば、それは民主主義といえるものだと思いますが、それらもなしに、多数決のみで白黒決着をつけるというのは、やはり違和感を覚えます。
違う意見が出たときに、どのように話しあって最適解を導き出すか、それこそが民主主義ではないでしょうか。