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2017年 1月

期待という名の足かせ

2017/01/30

親ならば、誰もが自分の子どもに愛情があります。

その愛情の表し方はひとそれぞれですね。愛ゆえに厳しく育てる方もいらっしゃるでしょうし、愛ゆえに甘やかして育てる方もいらっしゃいます。

厳しさも甘やかしも、どちらも子どもにとっては必要なエッセンスだと思います。

ただ、「愛情」という名のもと、おとなが自分自身の欲求を満たすために子どもを動かそうとすることは、果たして愛情と呼べるのかどうか、疑問です。

我が子がかわいいが故に、愛情がある故に、おとなは子どもに様々な期待をします。

「こういう人になってほしい」

「こういうことができるようになってほしい」

これらは子どもが生まれ、名前を付ける段階から、もしくはもっと早い時期の胎内にいるころから、おとなは色んな期待を子どもに向けます。

もちろん、愛情の反対は無関心なので、愛情があるからこそ、期待をかけるわけです。

子どもは基本的に身近なおとなが大好きですから、自分に向けられた期待にどうにかして応えようとがんばります。

目には見えなくても、子どもは必死で期待に応えようとします。

その期待が、子ども本人の欲求と発達状況に合致している場合は、とてもスムーズな発達が見られます。

しかし、おとなの期待が、子ども本人の欲求や発達状況とそぐわない過度なものである場合、子どもはうまくいかない現実と、おとなの期待とのいたばさみ状態になります。

がんばってもがんばっても、どうしようもできない現実に打ちのめされ、ストレスが溜まっていくわけです。

軽いものならば、友だちとはしゃいだり、好きなことを思い切りやったりしてうまくストレスを発散させることもできますが、素直でまっすぐな子どもほど、ストレスを発散することなく、どんどん溜め込んでいきます。

おとなの期待に応えようと頑張ることは、もちろん素晴らしいことではあるのですが、その反動で、例えば自分よりも劣っている他者を見つけいじめたり、誰かを自分よりも下に持っていこうと足を引っ張ったり。

逆に、その反動が、自己に向いた場合、1日中緊張度が高かったり、自分を卑下して自己肯定感がなくなってしまったり、最悪の場合は「ダメな自分」をどうしようもできなくなって自傷行為に走ったり。

そういった姿が見られるならば、おとなの期待には一旦ストップをかけたほうがいいのではないかと思います。

特に、今の時期、年長さんは就学を控えています。

新しい環境で、新しい生活を送らなければならないわけですから、子どもたちなりの不安や期待、様々な感情が入り乱れて、とても複雑な心理状況に陥ります。

そのため、日ごろは見せない甘えやいたずら、興奮などもよく見られるのがこの時期です。

ただでさえ、環境の変化に対して敏感になっていて、自分なりに自分の気持ちに折り合いをつけていこうともがいているこの時期に、おとなが期待をかけすぎると、子どもはそれが足かせになってしまって身動きができなくなります。

厄介なことに、こういったことは、当事者にはわからないものです。

だって必死ですからね。

必死になればなるほど、周りがみえなくなるのは人間だれしも当然のことです。

だからこそ、そのために、私たち保育者の存在があるのではないかと思います。

第三者から見れば、客観的に見ることができるわけですし、その客観的な視点で、子どものより良い育ちにつながっていくのではないでしょうか。

近年は、誰かに何か意見をされると、イコール「自分を否定された!」と取る方が多いですが、意見はあくまでも意見で、誰かの人格を否定するものでありません。

子どもを軸に、周りの大人が様々な議論をしつつ、一緒に子どもを育てていく視線が大事なのではないかと思います。

多くの目と手があることで、子どもは豊かに育っていくのではないでしょうか。

日本人は議論下手とよく言われますが、こういったところも、日本の教育の弊害のひとつなのでしょうね。

 

便利さ

2017/01/04

皆様あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願い致します。

毎年のことながら、年末やお正月である気分がないまま勝手に年が明けていく感覚を覚えます。

テレビでは年末の番組がありますし、外からは除夜の鐘も聞こえますし、自分で鐘を打つこともしますが、これといってお正月の気分を味わうこともなく、大掃除などで慌ただしく去っていくのが年末年始ですね。

私が子どもの頃はまだ、年末年始は世の中のお店はお休みで、新しい年を迎えるにあたっての準備がありました。年末のお買い物で食材などを買いこんでゆっくりと年越しを迎えて何をするともなしにゆっくり過ごす、というのがどの家庭でも一般的だったかと思います。

もちろん、当時でも、公的なお仕事の方はなかなか年末年始でお休みを取ることは難しかったと思います。警察官や救急の医療関係者などは、自分の休みと引き換えに、お仕事に携わっていないと、犯罪も緊急的なケガや病気も待ってはくれませんから。

ただ、商業的なお仕事は、年末年始にオープンさせる意味があるのか疑問に感じます。

少しでも売り上げを!と思う気持ちは商業においてはどこも一緒とは思います。

お客さんが困らないように、というサービス的な面からの配慮もあるかと思います。

その気持ちもわからないではないですが、行き過ぎたサービスはどうなのかと思ってしまいますね。

年末年始などの節目節目で、どこもお休みになるからこそ、前もって先の見通しを持って行動しなければいけなかったわけですが、今の世の中はそんなことをしなくても、どこかお店は必ず空いていますし、商品も豊富です。確かに便利ではありますが、生きていくうえでその便利さがあだになっているように感じます。

便利さに慣れてしまうことで、何も考えずとも予定を立てずとも、行き当たりばったりでの行動で何かを入手できるわけです。それになれていると、何かも手に入って当たり前と感じるようになりますし、待つこともできなくなります。

それだけのサービスが世の中にあふれているわけですから、仕方ないといえばそれまでですが。

ただ、人生は、そんなに自分の思い通りになるものでも、便利なものでも、行き当たりばったりでうまくいくものでもありません。

ほしいものがあったとしても、それをすぐに手に入れられるわけでもありません。

便利さを追及するあまり、自己抑制力が育ちにくくなっているのが今の世の中ですね。

確かに不便な世の中だと、何とか便利にして困っている人を助けたいと思うのが人情ですし、不便さの中では様々な弊害も出てしまいます。ですから、便利さを求めようとするのは当然のことなのですが、行き過ぎた便利さはどうも人間としての何かをゆがめてしまうように感じてしまいます。

そんな中、24時間営業を廃止したり、年始の3が日を休業しようとするグループも出てきています。今の世の中ではとても勇気のいる判断だと思いますが、個人的には賛成ですね。

一気にすべてがなくなるわけではないのですから、ないならないなりに工夫しようとしますからね、人間は。

どうも世の中のおとなは勘違いしている様ですが、今現在の豊かなモノがいつまでもあると思ってますよね。

食べ物がいつまでも育つ、採れる、獲れると思ってますよね。

人間がいつまでも地球上に存在すると思ってますよね。

世の中は諸行無常で栄枯盛衰です。

今あるものはいつかなくなります。

特に今後は、自然環境の変化は著しくなりそうですし、日本国内において言えば、人口減少は進む一方です。少子化には歯止めがかかりませんし、関連して、労働人口が減っていきます。国はその部分を移民で補おうと考えています。

目まぐるしく変わっていく世の中で、今の子どもたちがどう生きていくのか。

どうすれば生き残っていけるのか。

そういったこともいよいよ真剣に考えないといけない時期にきているのではないかと思います。

 

 

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