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2016年 10月

過保護と過干渉

2016/10/25

現代は、少子社会で、昔に比べてずいぶんと子どもの数が減りました。

昔は、家庭の中に多くのきょうだいがいて、父母だけでなく祖父母や曾祖父母までみんなで一緒に生活する家庭がほとんどでした。

しかし、少子社会と様々な理由により、今は核家族が多くなっています。

昔ながらの「地域」も、名称だけは残っているものの、地域活動を鬱陶しく思ったり、時間に追われて協力できなかったりと、様々な理由で「地域」のつながりもなくなりつつある、もしくはそもそもない、といったところも増えています。

それにより、今の子どもたちは、いわゆる「子ども社会」の経験がかなり希薄です。

そのうえ、少子社会によって、おとなは、子どもに目と手とお金をかけられることができるようになっています。

その分、昔は手が回らなかったことまで、おとなの手が回るようになり、過保護だったり過干渉だったりの中で子どもが育ちがちです。

確かに子どもはかわいく、おとなが守ってあげなければいけない部分もあります。

ですから、一人の子どもにできるだけ、手をかけ、目をかけ、可愛がって、甘やかして育てようとします。

ですが、子どもを甘やかすことと、受容することは、ちょっと違う気がします。

子どもは、共感してほしいとは思っていますが、おとなになんでもかんでもやってもらいたいとは思っていません。

病気をしないように、ケガをしないように、と、先回りして大人が危険をすべて取り除くことで、その時は、確かに病気もケガも回避できるかもしれません。

しかし、同時に、子ども自身に、病気に対する抵抗力やケガを回避する能力を身に付けさせないと、いつまでたっても、抵抗力もなく、ケガを回避できないままです。

病気やケガによって、直接、地球上のウイルスや雑菌を胎内に取り込むことで、抗体を作り、それらが抵抗力になっていきます。

長期的な視点で見たとき、子どもにとって必要な力とは、いったいどういうものなのでしょうか?

病気を発症しないような抵抗力や、大きなケガを回避する能力は、病気やケガを避けることで身につくわけではありません。

急がば回れ、といったことわざがあるように、本当に子どもにとって必要な力を身に付けてあげたいならば、おとなは短絡的に目の前のことだけを考えずに、長期的な視点にたっての関わりが必要なのではないでしょうか。

病気やケガだけでなく、例えば、遊びにしてもそうです。

子どもに辛い思いをしてほしくないがために、失敗しそうなことはあらかじめ排除することで、その場は失敗避けられます。

しかし、それでは、いつまでたっても、失敗をしないように先の見通しを持って自分で考えて行動することはできません。

子どもは失敗から学びます。失敗を経験することで、その時に感じた気持ちをまわりの大人に共感してもらうことで、立ち直り、次は失敗しないように気をつけるようになっていくのです。

ですが、おとながその機会を奪ってしまったら、どうでしょう?

徐々に、失敗そのものを恐れるようになり、何も行動できないようになっていきます。

こういったおとなの過保護や過干渉は、実は様々な精神疾患や発達障害と密接な関係があります。

それについてはまた別の機会に・・・。

お座敷

2016/10/17

たまに、「講師」としてお呼ばれすることがあります。

「講師」というとちょっと大それた気がしますし、「講義」とか「講演」とかなると、それもやっぱり、より一層大それた気がして、なかなか堂々と使えません。

なので、ちょっと照れ隠しも込めて、「お座敷」といったりするわけですが、今月末にもとあるお座敷があります。

今回は、島根県見守る保育研究会さんにお呼ばれされました。

2時間半程度のお座敷です。

タイトルは「乳幼児期の発達の偏りについて」です。

これまた大それたタイトルです。

内容としては、発達の偏りについての考え方や、発達障害のメカニズム、発達に偏りのあるなしに関係なく個々の子どもの発達に応じた保育をどのように展開しているかなどを、実際の環境設定を通してお話しする予定です。

発達の偏りに脳機能の話は不可欠ですので、現在いろんな文献を読み漁っています。

新しいものもあれば、何度も読んだものもあるのですが、やはりまだまだお薬などの開発に結びつく発見は乏しいです。

しかも新しい文献になれば、基本的にネイチャー誌などのメジャーで定評があり、かつ、根拠がしっかりしている論文となると、英文がほとんどですから、辞書がないと読めない上に、読むのにかなり時間がかかってしまいます。

PCなどの翻訳機能がありますが、専門用語まで正確に翻訳はしてくれませんから、なんとも厄介この上ないです。

早々に正確な翻訳機の開発を願うばかりです!(笑)切実です!

それはさておき、最近はやたらと脳科学的に~とかいう文言があっちこっちで見られます。ネット上の商品なども、「脳科学」って書いとけば売れる!信憑性がある!!って感じですね。

早期教育の知育グッズなどにもよく見られますね。

しかし、結構エセ脳科学が多いんですよ、ああいうの。

よく「右脳」「左脳」とか言いますが、専門家からすれば、右脳と左脳をわけて考えられるはずがなく、右脳も左脳も密接に結びついていて、どこかの機能だけで行動などが決まるわけではなく、一つの行動に様々な脳内の部位が関係しているんですね。

雑談のネタとしては面白いのでしょうけど、専門的な知見ではないですね。

しかも、基になっている文献のごくごく一部だけを切り取って、都合よく解釈して、さも専門家もこういってます!的な感じで宣伝するわけです。

論文かいた著者も迷惑極まりないですよね。

目にした情報が正しいのかどうかを判別するには、まずは、その情報がどの文献を参考にしているかが大事です。たいていの場合、正確な情報には、かならずその由来となった出典もとの文献が「参考文献」として但し書きが添えられています。

そして、その文献を実際に読んでみて、捻じ曲げられてないか、ご都合主義な引用がされてないか、を見極めることが大事です。

ネット上や雑誌などの「脳科学」を謳っているものの多くが、参考文献などの記載がなかったり、有名どこの脳科学者の名前だけ使っていたりしています。

その仕組みを知ってしまうと、日本の経済もエセ商品がいかに多いのかがわかります。

情報過多な現代ですから、ちゃんとしたリテラシーを持って情報には触れないと、ただ振り回されてしまうだけでになっちゃいますね。

お座敷にお呼ばれする際は、できるだけ私見は取り除いて、正しい情報だけを伝えようと心がけてはいます。そうじゃないと聞いてくれる人に対して失礼ですし、不確かな情報をさも真実であるかのように告げてしまうことは、あまりにも無責任ですしね。

私見のときは、ちゃんと私見って言いますよ、私は!

時間の関係上、あえて端折ることはありますけども。

今回の聞き役の方々は、現場の皆さんなので、できるだけ難しい言葉や専門用語は使わずにお話ししようと思います。

せっかく時間を作って聞いてくださるわけですから、少しでもお役に立ちたいですしね。

何よりも、少しずつでも、インクルージョンやそこから進化したコーヒージョンの考え方をもって保育にあたる人や園が増えてくれることがあれば、嬉しいですし、それだけ自分を受容してくれると感じられる子どもが増えることにもつながるわけですしね。

 

そうたいそうなことができるわけではないんですけどね・・・。

夢は大きく描かないとね!!!(もちろん、それに向かっての努力は大事ですけども)

人類の進化

2016/10/01

人類はすさまじい進化を遂げて現代を迎えています。

遠い過去には哺乳類も存在しなかった地球上で、他の動物に比べ種としての総数も多く、手にした文明も技術も類を見ないほどです。

かつては恐竜が地球上の覇者といわれていましたが、隕石なのか氷河期なのかが原因で、絶滅してしまいました。

哺乳類はその後、誕生し、どんどん進化して現在のヒトとなるわけですが、現在のヒトは、ホモサピエンスという種に分類されます。

ヒト型の種は、他にもネアンデルタール人やホモ・エレクトスなどの種もかつては存在していたそうです。

しかし、それらの種は絶滅してしまい、現在のホモサピエンスのみが生存しています。

絶滅したか残存したかの違いは、「協力」の有無だったそうです。

他者と協力し、互いに補い合いながら様々な困難を耐え忍び、切り抜けてきた種が、ホモサピエンスだといわれています。

つまり、協力することができた種だけが、生き残り、進化を遂げてきたのだということです。

ですから、本来、私たち現代人にも、生得的に「他者と協力する」という遺伝子が組み込まれているはずなのですが、現代社会はどうでしょう?

日本にも「おたがいさま」という言葉があるように、困ったときは互いに支え合う姿勢があったはずです。

ところが、最近は、困っている人や立場が弱い人を蔑ろにするような風潮が見聞きされますね。

逆に、「自分は弱者」だから、「他者からの恩恵に与って当然だ」というような一般的には煙たがられる態度もありますね。

なぜ、ここまで両極端なのでしょう?

どちらも譲歩すれば、互いに気持ちよく関係性が保てるはずなのに、ここまで両極端だと相容れるはずがありません。

このような状態では、協力どころか、憎み合うことにも繋がりかねません。

それだけ現代人に余裕がないのでしょうか。

自分のことだけで精いっぱい、という現代人が多いのでしょうか。

ひとりひとりは「悪い人」ではないはずなのに、ちょっとした余裕のなさが、こういった状況を生みだしてしまっているのでしょうか。

一説では、長い歴史をもつ地球上で、ホモサピエンスの時代はさほど長いものではなく、むしろまだまだ短い方で、いわゆる「社会性」そのものがまだ未発達で進化の途中であるといわれています。

今後、人類が地球上で生き残っていくために、「協力」という言葉がキーワードになるのではと思っています。

極端に言えば、それができない人類は、滅亡へ向かっていくしかないのではないでしょうか。

 

他者と協力することよりも他者と競い合い蹴落とすことを重視していた時代を生きてきた人たちが大人になり、自分の子どもにも同様のことを求め、他者を思いやったり、相手の立場になって考えたり、誰かに手を差し伸べたり、そういったことよりも、自分のことだけを優先するような教育を施されれば、それで育った子どもたちは一体どうなっていくのでしょうか?

確かに競争は大事なエッセンスだと思います。

ライバルがいることで、自分を高めようとするモチベーションにも繋がりますし、ライバルから学ぶことも多くあります。

競争することそのものを楽しみ、結果によっては達成感を味わったり、逆に敗北感を味わったりして、それを今後に生かしていくことは、人間性を深めるためにも大事なエッセンスではあると思います。

しかし、勝つためには手段を選ばないような、他者を蹴落としたり陥れたりしてまで結果に拘るとなると、話は違ってきます。

ただし、結果だけで親やまわりのオトナに判断されていれば、子どもは手段は選ばなくなるとは思います。

だってそうしないと、自分を受け入れてもらえませんからね。

どんな子どもだって、親や身近な大人には受け入れてもらいたい、認めてもらいたいと思うものです。

叱咤激励の意味でのおとなのそういう態度なら、いつか理解する日も出てくるかもしれませんが、最近の風潮ですと、子どものための叱咤激励というより、自分の体裁や世間体のために動いている大人が多い気がします。

そんな状況で、「協力」という概念なんか身につくわけないですよね。

ただ、生き方はそれぞれですし、価値観もそれぞれですから、どれが正解っていうのはないのでしょう。

自分に合った生き方をすればいいと思うんですが、他者を蔑ろにしてきた結果、孤独になったって文句は言えませんよね。

私としては、今の子どもたちに孤独になってほしくないので、できるだけ他者と協力して生きていく方法を学んでほしいと思います。

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